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写真家で読む写真史 — ダゲールから川内倫子まで、欧米と日本を時代別に

この記事では、写真の歴史における主要な転換点ごとに、それを実際に担った写真家を解説します。

先に書いた 写真史の転換点を4軸で測り直す が「何が起きたか」の記事だとすれば、こちらは「誰がやったか」の記事です。前者では運動名と展覧会名で処理していた部分を、人物のレベルまで降りて説明します。

時代別・写真家マップ(欧米と日本の併置)

写真史の7つの時代区分ごとに代表的な写真家を配置した一覧図。左に時代区分、続いて欧米の芸術・報道写真家、広告・ファッション写真家、日本の写真家を3列に並べ、ニューカラーの中心人物には星印を付けている

図の通り、広告・ファッション写真家を独立した列に、日本の写真家を右列に併置 しました。

前者を分けたのは、写真史の解説がこの系列をほぼ省くからです。同じ時代に同じ技術で撮っていながら、発注者が企業だと正典に載りません。 後者を分けたのは、解説が欧米中心に語られがちな一方で、日本には同時代の独自の展開があり、いくつかの局面では欧米へ影響を返してもいるからです。

時代区分は転換点の記事の 7 分類に対応しています。表にすると次の通りです。

区分年代欧米(芸術・報道)広告・ファッション日本の代表
I. 発明と定着1839〜1880年代ダゲール、ナダール、キャメロン(肖像写真館=個人からの受注)上野彦馬、下岡蓮杖
II. 芸術としての自立と職業としての成立1890年代〜1930年代スティーグリッツ、ウェストン、A.アダムススタイケン、ド・メイヤー、ホルスト、マン・レイ野島康三、中山岩太
III. 記録・報道・宣伝1930年代〜1955年ラング、エヴァンズ、カルティエ=ブレッソンバーク=ホワイト、ムンカーチ、ペン、アヴェドン木村伊兵衛、土門拳、名取洋之助
IV. 主観への転回1958〜1970年代R.フランク、クライン、アーバスベイリー、ドノヴァン、ダフィー森山大道、中平卓馬、荒木経惟、篠山紀信
V. 即物性とカラー1963〜1981年ルシェ、ベッヒャー夫妻、エグルストンニュートン、ブルダン(本記事の範囲外)
VI. 美術としての写真1977〜1990年代シャーマン、J.ウォール、グルスキーウェバー、リッツ、トスカーニ、レボヴィッツ杉本博司、横須賀功光
VII. 脱物質化1990年〜現在ソス、ティルマンスコリンヌ・デイ、テラー、N.ナイトホンマタカシ、川内倫子、上田義彦

以下、時代順に見ていきます。

I. 発明者と職業肖像写真家 — ダゲール、タルボット、ナダール(1839〜1880年代)

写真が「できるようになった」時代です。この段階の主役は、芸術家というより 発明者と職業肖像写真家 でした。

ルイ・ダゲール/ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット

1839 年、ほぼ同時に別の方式が公表されます。ダゲールのダゲレオタイプは金属板に直接像を定着させる一点物、タルボットのカロタイプは紙ネガから複数の陽画を焼く方式でした。

画質ではダゲレオタイプが勝りましたが、現在の写真につながったのはタルボットの側です。ネガという中間物を置いたことで「複製できる画像」という性質が生まれました。写真がのちにメディアになれたのは、この分岐のおかげです。

ナダール(ガスパール=フェリックス・トゥルナション)

1820 年パリ生まれ。1854 年に最初の写真スタジオを開きます。当時の肖像写真は形式的なポーズが常識でしたが、ナダールはそれを拒み、被写体の人柄が出る撮り方をしました。ボードレール、ドラクロワ、サラ・ベルナールらの肖像が残っています。

「写真家が被写体をどう見たか」が写真に現れる、という当たり前のことを最初に見せた人物です。

ジュリア・マーガレット・キャメロン

1863 年、48 歳のときに娘夫婦からカメラを贈られて写真を始めます。以後 12 年ほどで約 900 点を制作しました。

技術的には当時の基準から見て「下手」でした。ピントは甘く、傷や汚れもそのまま残っています。しかしキャメロンはそれを欠点と考えず、にじんだ像そのものを表現として提出しました。後述するピクトリアリズムを 30 年先取りしています。

エドワード・マイブリッジ

1878 年以降の連続写真で、肉眼では見えない運動を分解して見せました。走る馬の四肢が同時に地面を離れる瞬間があるかどうか、という賭けの検証が出発点だったと伝えられます。

写真が「見えるものを写す道具」から「見えないものを可視化する装置」になった瞬間です。

ディスデリとマシュー・ブレイディ(肖像写真の産業化)

この時代の「広告・ファッション」欄に相当するのは、まだ広告ではなく 個人からの受注 です。

アンドレ・アドルフ・ユジェーヌ・ディスデリ は 1854 年、1 枚のネガから名刺判の肖像を複数焼く カルト・ド・ヴィジット の方式で特許を取りました。1 ダース単位で売る価格設定によって肖像写真が中産階級以下へ広がり、1860 年代には「カルトマニア」と呼ばれる流行になります。

マシュー・ブレイディ はニューヨークとワシントンに肖像スタジオを構え、南北戦争の記録では自らの名前で撮影チームを組織しました。

ここを押さえておく意味は 2 つあります。ひとつは、19 世紀に撮られた写真の圧倒的多数がこの種の受注仕事だったこと。もうひとつは、正典がこれを様式の問題ではなく「流行」や「産業化」として、つまり歴史の外側として処理することです。

日本 — 上野彦馬と下岡蓮杖

1862 年(文久 2 年)、上野彦馬が長崎で、下岡蓮杖が横浜でそれぞれ営業写真館を開きます。ほぼ同年で、二人は日本の写真家の始祖とされます。上野彦馬は幕末維新期の人物を数多く撮影しました。

日本への写真の到達は、発明からわずか 20 数年後です。一般に思われているほど遅くありません。

上野と下岡も、この構図の日本側です。幕末から明治の写真館は、個人が金を払って自分や家族の像を作らせる場所でした。七五三や成人式の記念写真として今日まで続く産業の始まりでもあります。

II. スティーグリッツの反転と f/64 グループ(1890年代〜1930年代)

「写真は芸術か」が正面から争われた時代です。しかも 同じ人物が途中で立場を反転させます。

アルフレッド・スティーグリッツ

この時代の中心人物です。1902 年に フォト・セセッションを結成し、1903 年から写真誌『Camera Work』を刊行、1905 年にはニューヨーク五番街 291 番地に画廊(通称「291」)を開きます。

初期の主張は ピクトリアリズム —— ソフトフォーカスや特殊印画法で絵画に近づけることで、写真の芸術性を証明しようとしました。ところが後半でこれを自ら否定します。

エドワード・スタイケン

スティーグリッツの盟友であり、291 の実現者です。画廊になったスタジオはスタイケンが提供したものでした。

この人物は写真史に三度登場します。 ここでピクトリアリズムの中心作家として現れ、1920〜30 年代には世界で最も高給の商業写真家となり、1955 年には MoMA 写真部長として「The Family of Man」を企画する側に回ります。

真ん中が抜け落ちがちです。1911 年、ポワレのドレスを撮った写真が『Art et Décoration』4 月号に載ります。最初期の近代ファッション写真とされるものです。そして 1923 年にコンデナスト(『Vogue』『Vanity Fair』)の首席写真家となり、同時に広告代理店 J. Walter Thompson の仕事でジャーゲンス、コダック、キャノン・タオル(Cannon Mills)といったブランドを撮りました。年俸は 35,000 ドルで、当時世界で最も高い報酬を得た写真家とされます。

つまり 絵画主義の作家 → 企業の発注を受ける商業写真家 → 国家的巡回展のキュレーター という経路です。正典は 1 番目と 3 番目だけを書きます。

ド・メイヤー/ホイニンゲン=ヒューネ/ホルスト(ファッション写真の成立)

スタイケンと並行して、ファッション写真が職業として固まります。

同時期の セシル・ビートン も『Vogue』『Vanity Fair』で活動し、のちに舞台・映画の美術へ移りました。

ここで押さえておきたいのは順序です。ファッション写真はピクトリアリズムの技法を引き継いで始まり、f/64 が「写真固有の性質」を主張していた頃には、すでに独立した職業になっていました。 同じ 1920〜30 年代の出来事なのに、正典は片方しか記述しません。

ポール・ストランド

その反転を決定づけたのがストランドです。1916 年、スティーグリッツは 291 でストランドの個展を開き、『Camera Work』の最後の 2 号(49–50 号、1917 年 6 月)を彼の作品に充てました。「今日の直接的な表現」であり、いかなる「イズム」も持たない、と評しています。

つまり 『Camera Work』は、ピクトリアリズムの機関誌として始まり、それを否定する写真を載せて終刊したわけです。運動の自己否定がそのまま誌面の歴史になっている、珍しい例です。

エドワード・ウェストン/アンセル・アダムス/イモジェン・カニンガム(f/64 グループ)

1932 年、サンフランシスコ湾岸で結成された 11 人の集まりです。名称は最も絞り込んだ絞り値に由来し、全面にピントの合った、粒子のない、階調の豊かな写真を目指しました。

主張の構造が重要です。ピクトリアリズムが「絵画に似せることで」芸術性を主張したのに対し、f/64 は 「絵画にはできないことをやることで」芸術性を主張 しました。完全な逆張りです。

モホイ=ナジ・ラースロー/アウグスト・ザンダー/マン・レイ

ヨーロッパ側の展開です。バウハウスの モホイ=ナジ は極端なアングルやフォトグラム(カメラを使わない感光紙上の作画)で「人間の目とは違う視覚」を探りました。ザンダーはドイツ人を職業別に類型化して撮影する試みを続け、のちのベッヒャー夫妻へつながる系譜を作っています。

マン・レイ は前衛と商業の両方に足を置いた例です。レイヨグラフ(フォトグラム)やソラリゼーションの実験で知られますが、商業写真の出発点は 1924 年末からのポワレの服の撮影で、翌年にはフランス版『Vogue』、1933 年からは『Harper’s Bazaar』の常任寄稿者になっています。

この時代のヨーロッパでは、前衛の技法と広告の仕事が同じ人物のなかで両立していました。 バウハウスに印刷・広告工房が置かれていたこと(1925 年、主任はヘルベルト・バイヤー)、レンガー=パッチュにとって工場からの受注が仕事の大きな柱だったことも同じ構図です。

日本 — 野島康三と中山岩太

1932 年から 1933 年にかけて全 18 号が刊行された写真同人誌『光画』が、日本の 新興写真 を牽引しました。創刊同人は資金面を担った 野島康三、中山岩太、木村伊兵衛 の 3 名で、第 2 号から写真評論家の伊奈信男が加わります。

新興写真は、ドイツの新即物主義やシュルレアリスムの影響下で、カメラとレンズの機械性を活かした写真独自の表現を目指す動きでした。時期も主張も、欧米のストレート・フォトグラフィやニュー・ヴィジョンとほぼ並走しています。日本は追従していたのではなく、同時代に同じ問題を解いていました。

III. ドロシア・ラング、マグナム、木村伊兵衛と土門拳(1930年代〜1955年)

写真が 社会を動かす道具 として最大の力を持った時期です。

ドロシア・ラング

FSA(農業安定局)の写真プロジェクトに参加し、1936 年にカリフォルニア州ニポモで撮影した《Migrant Mother(移民の母)》は、写真史上最も広く流通した画像の一つになりました。

被写体はフローレンス・オーウェンズ・トンプソン。この 1 枚が大恐慌下の農業労働者への支援世論を作りました。写真が政策に直接影響した、数少ない検証可能な例です。

ウォーカー・エヴァンズ

同じ FSA に参加しながら、ラングとは正反対の方法を採りました。感情に訴えず、正面から、無感情に、対象を記述する。看板、店先、小作農の家の内部。

この姿勢は 30 年後にエド・ルシェやニュー・トポグラフィックス、そしてニューカラーへ受け継がれます。エヴァンズは III 期の人でありながら、V 期の直接の祖 という位置にいます。

ロバート・キャパ/アンリ・カルティエ=ブレッソン(マグナム)

1947 年、キャパ、カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デヴィッド・シーモアの 4 名が写真家集団マグナムを設立します。全員が第二次大戦の従軍経験者でした。

目的は明確で、写真家の権利と、被写体をどう描くかの裁量を写真家の側に確保すること。それまで写真は雑誌社の所有物でしたが、著作権を持つ専業写真家という職能はここで確立されます。

カルティエ=ブレッソンは 1952 年の写真集『決定的瞬間』で、幾何学的な構図と一瞬の出来事が一致する点を捉える美学を提示しました。35mm スナップの完成形です。

この職能モデルが崩れるのは、マグナム設立から 66 年後です。2013 年、シカゴ・サンタイムズが写真部 28 名を全員解雇し、記者に iPhone 撮影の講習を課しました。経緯は 写真史の転換点を4軸で測り直す で扱っています。

マーガレット・バーク=ホワイト

グラフ誌の時代を、企業の発注の側から代表する写真家です。

オハイオの製鉄所(オーティス・スチール)の撮影で名を上げ、1930 年創刊の経済誌『Fortune』に最初期から関わりました。産業設備を彫刻のように撮る手法で、企業が自社を撮らせるための写真という分野をほぼ一人で立ち上げています。

1936 年 11 月 23 日、『LIFE』創刊号の表紙は彼女が撮ったフォート・ペック・ダムでした。のちに戦争特派員としてヨーロッパへ渡り、1945 年にはブーヘンヴァルトを撮影しています。

産業広報から報道へ同一人物が横断するという、この時代に特有の経路がはっきり出ています。

ムンカーチとブロドヴィッチ(『Harper’s Bazaar』)

ファッション写真の側でも、この時期に決定的な転換が起きます。

マルティン・ムンカーチ(ハンガリー出身)は 1933 年 12 月号の『Harper’s Bazaar』で、水着のモデルが浜辺を走る写真を発表しました。それまでスタジオ内で静止していたファッション写真が、屋外に出て動き始めた瞬間とされます。

なお カルティエ=ブレッソン自身が、写真家になる決定的な契機としてムンカーチの 1 枚を挙げています。 1930 年頃のタンガニーカ湖で少年 3 人が波打ち際を走る写真を見て、「写真が一瞬のなかに永遠を定着できると突然わかった」と語っています。こちらは報道写真で、しかも《走るモデル》より前の作品です。動きの捕捉という技法が、報道から商業へ、そして再び報道へと往復していたわけです。

ムンカーチを 1933 年に説得したのは編集者の カーメル・スノウ でした。そのスノウが翌 1934 年に迎え、1958 年まで『Harper’s Bazaar』のアートディレクターを務めたのが アレクセイ・ブロドヴィッチ です。写真家ではありませんが、誰に何を撮らせるかを決めた人物であり、その私塾(Design Laboratory)からアヴェドン、ペン、アーバスらが出ています。ロバート・フランクを 1947 年に同誌で起用したのも彼です。

アーヴィング・ペン/リチャード・アヴェドン

戦後のファッション・広告写真を規定した二人です。どちらも 1940 年代に始まり、活動は 1990 年代以降まで続きます。

アヴェドンには ④ の軸がそのまま出た仕事もあります。1979 年から 1984 年の《In the American West》は、美術館(アモン・カーター美術館)からの委嘱で西部の労働者を白背景で撮った連作でした。発注者が企業や国家ではなく美術館になった例です。

W. ユージン・スミス

『LIFE』誌のフォトエッセイの代表的な作り手です。1971 年に妻アイリーンとともに水俣へ移り住み、1972 年 6 月 2 日号の『LIFE』にフォトエッセイを発表、1975 年に写真集『MINAMATA』を刊行しました。

1972 年 1 月、千葉県五井のチッソの工場での取材中に社員から暴行を受け、片目の視力が悪化しています。報道写真が実際に何かを止めようとしたとき、何が起きるかを示した事例です。

日本 — 木村伊兵衛と土門拳

1950 年代の日本写真を規定した二人です。しばしば対照的な存在として語られます。

その前史に 名取洋之助 を置くべきです。ドイツで報道写真の実務を学んで帰国し、1933 年に 日本工房 を設立、1934 年に対外向けグラフ誌『NIPPON』を創刊しました。木村伊兵衛も原弘もここに関わっています。

名取が持ち込んだのは撮影術というより、「誰が発注し、誰が編集し、誰がデザインするか」というグラフ誌の制作体制でした。この体制はそのまま戦時の対外宣伝へ接続し、1942 年創刊の『FRONT』(東方社)ではソ連の『USSR in Construction』を範に、原弘のデザインと木村らの撮影で対外宣伝誌が作られます。

日本の報道写真・広告写真・宣伝写真は、同じ制作体制から分かれた枝でした。詳しくは 写真史の転換点を4軸で測り直す の III 節で扱っています。

土門は 1950 年から写真雑誌『カメラ』の月例(アマチュア向けコンテスト)の審査員を務め、1952 年以降は木村と合同で担当します。二人の講評を通じて、リアリズム写真運動が全国のアマチュアを巻き込む一大ムーブメントになりました。

ここが日本固有の点です。欧米では美術館とギャラリーが写真の方向を決めましたが、日本では写真雑誌の月例コンテストがその役割を担いました。 制度の形が違います。

IV. ロバート・フランクとプロヴォーク — 主観への転回(1958〜1970年代)

「世界を正しく記録する」という前提が崩れ、写真家個人の見え方が主題になります。

ロバート・フランク

1958 年(仏版)/1959 年(米版)の『The Americans』。粗い粒子、傾いた水平、中心を外した構図。1955 年に MoMA で開かれた「The Family of Man」の「人類は一つ」というヒューマニズムに対する、正面からの否定でした。

刊行当時のアメリカでは酷評されています。「非愛国的」「技術的に稚拙」と。戦後写真における最大の分岐点であり、この評価の遅れは 1976 年のエグルストン展とよく似た形をしています。

ウィリアム・クライン

1956 年にパリで刊行された写真集『New York』。ブレ、ボケ、荒れた粒子、そして挑発的なブックデザイン。

この本は刊行直後から日本の写真家のあいだで回覧され、写真界に大きな衝撃を与えました(日本版の刊行は 1964 年、造形社)。 後述するプロヴォークの「アレ・ブレ・ボケ」は、クラインの直接的な影響下にあります。欧米から日本への影響が具体的に辿れる、数少ない例です。

ここで見落とされがちな事実があります。クラインはこの時期、『Vogue』のファッション写真家でした。 アレクサンダー・リバーマンに招かれ、1955 年から 10 年ほど同誌で仕事をしています。1966 年の監督作『Qui êtes-vous, Polly Maggoo?』は、そのファッション業界を風刺した映画です。

つまり 反ファッション的な写真集を作った人物が、ファッション誌の給料で生活していた。 ④ の軸で見ると、この時代の「主観への転回」の資金源はかなりの部分が商業誌でした。

デヴィッド・ベイリー/テレンス・ドノヴァン/ブライアン・ダフィー

1960 年代ロンドンの 3 人です。労働者階級出身の写真家が、階級とファッションの結びつきを崩したという文脈で語られます。

ベイリーは 1960 年に英国版『Vogue』へ入り、1965 年に《Box of Pin-Ups》を刊行しました。額装した写真集ではなく、箱に入ったポスター群という形式そのものが当時としては挑発的でした。

3 人はまとめて「ブラック・トリニティ」と呼ばれ、アントニオーニの映画『欲望(Blow-Up)』(1966)の主人公像はこの世代を参照したものとされています。

ファッション写真家が文化的な有名人になった最初の局面であり、④ の軸では「企業の発注を受ける職人」から「発注を選ぶ作家」への移動として読めます。

ダイアン・アーバス/リー・フリードランダー/ゲイリー・ワイノグランド

1967 年、MoMA の「New Documents」展で並んだ 3 名です(展覧会の詳細は転換点の記事を参照)。

企画者の言葉によれば、彼らは「ドキュメンタリー写真の技法と美学を、より個人的な目的へ向け直した」世代でした。FSA が「世界を直すため」に撮ったのに対し、この 3 人は「世界を見るため」に撮ります。同じドキュメンタリーの技法が、正反対の目的に使われたわけです。

日本 — 細江英公、東松照明、そしてプロヴォーク

日本側はこの時期に最も密度が高くなります。

荒木も篠山も、商業写真の仕事と私的な作品を同じ手で作り続けた点が共通しています。プロヴォークが「言葉に対する写真の自律」を賭けていたのと同じ時期に、日本の写真家の多くは広告と雑誌の発注で生活していました。

プロヴォークの「アレ・ブレ・ボケ」は、言葉に対して写真が自律できるかを賭けた実験でした。わずか 3 号で終わりながら、1970〜80 年代の日本写真を規定します。

V. ルシェ、ベッヒャー夫妻、エグルストン(1963〜1981年)

作家の感情を排し、対象をそのまま記述する方向へ振れた時代です。

エド・ルシェ

1963 年の『Twentysix Gasoline Stations』。ロサンゼルスから故郷オクラホマシティまでのルート 66 沿いにあるガソリンスタンド 26 軒を、無感情に撮って並べただけの 48 ページの本です。

「良い写真」を撮る意思が最初から放棄されており、アーティストブックという形式そのものが作品でした。コンセプチュアル写真の起点とされます。

ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻

給水塔、溶鉱炉、ガスタンクを、同一の条件(曇天、正面、同じ画角)で撮り、格子状に並べる 類型学(タイポロジー) の方法を確立しました。

1976 年からベルントがデュッセルドルフ芸術アカデミーの写真科教授を務め、ここから VI 期のデュッセルドルフ派が育ちます。 一人の教育者が次の時代を丸ごと作った例です。

ロバート・アダムス/ルイス・ボルツ(ニュー・トポグラフィックス)

1975 年の「New Topographics」展の中心にいた 2 人です。崇高な自然風景を否定し、造成地、駐車場、郊外住宅をモノクロで淡々と記述しました。

ロバート・アダムスは、II 期のアンセル・アダムスと姓が同じですが血縁はありません。しかも撮る対象は正反対です。アンセルがヨセミテの手つかずの自然を撮ったのに対し、ロバートはコロラドの新興住宅地を撮りました。同じ西部の風景に対する、40 年を隔てた二つの態度が並んでいます。

ウィリアム・エグルストン/スティーブン・ショア(ニューカラー)

この二人については別記事で詳述しました。要点だけ。

詳細は ニューカラー — 1970年代アメリカでカラー写真が「芸術」になった瞬間 をご覧ください。ジョエル・マイロウィッツ、ジョエル・スターンフェルド、ジョン・プファール、リチャード・ミズラックもそちらで扱っています。

なお、ショアは 1975 年のニュー・トポグラフィックス展の参加作家 10 名の一人でもあります。二つの潮流はこの人物で交差しています。

ヘルムート・ニュートン/ギイ・ブルダン(1970年代のファッション写真)

この時期、ファッション写真は「服を見せる」機能から離れて自律します。

ブルダンの仕事は ④ の軸として重要です。企業の広告予算のなかで、企業のためになるとは限らない画面が作られていた。 発注されているが、発注者の意図に還元できない。同じ 1970 年代に、ニューカラーは「商業的」という理由でカラーを排除される側にいました。

VI. シンディ・シャーマンと杉本博司 — 美術としての写真(1977〜1990年代)

写真が 美術館の壁で絵画と正面から競合する ようになった時代です。

シンディ・シャーマン

1977 年から 1980 年にかけて制作された《Untitled Film Stills》全 69 点。存在しない映画のスチル写真を装い、1950〜60 年代の映画に出てきそうな女性像を自ら演じて撮影しました。

ここで写真の前提が変わります。シャーマンは世界を撮っていません。 撮っているのは、自分が演じた既製のイメージです。IV 期・V 期が共有していた「観察する写真家」というモデルが、ここで終わります。

リチャード・プリンス

他人の広告写真を再撮影して自作として発表しました。オリジナルと作者性の解体が主題です。のちに著作権をめぐる訴訟の当事者にもなります。

引用元を具体的に見ると意味が変わります。《Untitled (Cowboy)》の元になったのは マルボロのタバコ広告 でした。つまりこの時代、美術館の壁に掛かる写真の材料は広告写真だったわけです。

ニューカラーが 1976 年に「商業的だから失格」として否定した参照点を、その 1 年後にピクチャーズ・ジェネレーションは引用の対象として選び直しています。 同じ境界線が、向きを変えて引き直されました。

ジェフ・ウォール

1978 年の《The Destroyed Room》以降、大型のライトボックスに写真を仕込んで展示します。周到に演出・構築された場面を、絵画の規模で提示する タブロー写真 の確立者です。

ナン・ゴールディン

1986 年の写真集『The Ballad of Sexual Dependency(性的依存のバラード)』。自身が「拡大家族」と呼ぶ仲間たちの生活を、内側から撮り続けたものです。プライベート・ドキュメンタリーの代表作とされます。

デュッセルドルフ派 — グルスキー、シュトゥルート、ルフ、ヘーファー

ベッヒャー夫妻の教え子たちです。1980 年代末から、大画面・高精細・カラーという共通の形式で、写真を美術市場の中心に押し上げました。

アンドレアス・グルスキーの《Rhein II》は 2011 年 11 月、クリスティーズで 430 万ドル で落札され、当時の写真作品の落札額記録を更新しています。この作品では、堤防を歩く人や工場の建物がデジタル処理で消されていました。

「写真が美術になった」ことを金額で示した出来事であり、同時に 加工された写真が最高額を付けた という点でも示唆的です。

1980年代の広告写真 — ウェバー、リッツ、トスカーニ

美術としての写真が高額化したのと同じ 1980 年代に、広告写真の側でも作家性が前面に出ます。

トスカーニは ④ の軸で逆向きの例です。報道写真の見え方を、そのまま広告の側へ持ち込みました。 エイズで死を迎える人物、血のついた新生児、死刑囚の肖像。商品はほとんど写らず、社会的な主題だけが提示される。

FSA が「国家の広報が報道写真の形を借りた」例であるのに対して、ベネトンは「企業の広告が報道写真の形を借りた」例です。約 50 年を隔てて、借用の向きが同じで発注者だけが違います。

アニー・レボヴィッツ

1973 年から『Rolling Stone』の首席写真家、1983 年から『Vanity Fair』。有名人の肖像を演出して撮るという形式を確立しました。

同時にアメリカン・エキスプレスやルイ・ヴィトンの大規模キャンペーンも手がけており、雑誌のポートレートと広告が同じ様式で作られるという、この時期以降の標準形をよく示しています。

日本 — 杉本博司

大判カメラによる 3 つの連作で知られます。

一貫しているのは 「写真に時間をどう写すか」 という問題です。《Theaters》の白いスクリーンは、映画 1 本の全フレームが重なった結果にほかなりません。

日本の広告写真では 横須賀功光 を挙げるべきです。1960 年代から資生堂の広告写真を手がけ、アートディレクター中村誠との協働(1966 年の前田美波里「ビューティケイク」、1978 年の「舞」など)、1973 年に資生堂と専属契約した山口小夜子を起用したキャンペーンなどで、企業広告のなかに強い作家性のある画面を作りました。

日本では写真の正統性を長く写真雑誌の月例が担ってきましたが、広告に関しては化粧品会社の宣伝部と広告代理店がその機能を果たしていました。 発注者が制度になっている例です。

VII. アレック・ソス、川内倫子 — 作者のいない転換の時代(1990年〜現在)

写真史の転換点を4軸で測り直す で詳述した通り、この時期の主役はデジタル化・インターネット・SNS という 作者のいない転換 です。個人の写真家に還元しにくい時代ですが、いくつかの名前は挙げられます。

アレック・ソス

『Sleeping by the Mississippi』(2004)など。エグルストン、ショア、スターンフェルドのアメリカン・ロードの系譜で語られる作家です。V 期の方法が生き延びていることを示しています。

ヴォルフガング・ティルマンス

雑誌の切り抜き、インクジェット出力、額装せず画鋲で留めた展示。プリントの物質性と展示形式そのものを作品の一部にしました。画像が容易に複製・流通する時代に対する、ひとつの応答です。

コリンヌ・デイ/ユルゲン・テラー/ニック・ナイト

1990 年代、広告とファッション写真が 私写真の見え方 を取り込みます。

ここに符合があります。1970 年代に「素人的だから芸術ではない」とされた見え方が、1990 年代には広告の側で最も高く売れる様式になっていました。 ニューカラーが美術館に入れた素人的な色と、テラーが広告に持ち込んだ素人的な光は、同じものを別の軸で扱っています。

日本 — ホンマタカシと川内倫子

広告写真の側では 上田義彦(サントリー烏龍茶など)と 藤井保(無印良品「地平線」など)が、この時期の日本を代表します。どちらも説明を削った静かな画面で、商品よりも世界観を提示する広告でした。III 期の名取洋之助が持ち込んだ「発注・編集・デザインの体制」が、この段階ではアートディレクター主導の様式として定着しています。

川内の受賞した賞の名前が 木村伊兵衛 であることには、少し立ち止まる価値があります。III 期にリアリズム写真運動を率いた写真家の名を冠した賞が、日常の微細な光を撮る作家に贈られている。日本写真史の内部で、評価の軸が半世紀かけて移動したことがそのまま現れています。

写真史を通して見える3つのパターン

3 点だけ挙げます。

1. 転換はしばしば「同じ人物の反転」として起きる

スティーグリッツはピクトリアリズムを立ち上げ、自ら否定しました。ショアは 35mm スナップから大判へ転向しました。運動が別の運動に交代するというより、当事者が自分の方法を裏切ることで次が始まる ケースが目立ちます。

2. 教育者の影響が運動より長い

ベッヒャー夫妻がデュッセルドルフで教え始めたのは 1976 年です。そこから育ったグルスキーらが市場を変えるのは 1990 年代。約 15 年の遅延を伴って、教室が時代を作っています。 展覧会や写真集より、この経路のほうが射程が長いことがあります。

3. 日本は追従していない

新興写真は欧米のストレート・フォトグラフィとほぼ同時期でした。クラインの『New York』は刊行直後から日本の写真家に強い影響を与え、そこから生まれたプロヴォークの美学は、のちに欧米へ逆輸入されています。影響は一方通行ではありません。

ただし制度の形は違います。欧米では美術館とギャラリーが写真の正統性を決め、日本では長らく 写真雑誌の月例コンテスト がその機能を担いました。同じ「制度的承認」でも、担い手が違えば運動の形も変わります。

4. 正典に載る作家の多くが、商業の発注で生活していた

スタイケンはコンデナストの首席写真家でした。クラインは『The Americans』と同時代に『Vogue』の仕事をしていました。バーク=ホワイトは『Fortune』から出発し、エヴァンズは 1945 年から『Fortune』の専属になりました。荒木と篠山は広告と私写真を同じ手で作り続けました。

「作家としての写真」と「依頼されて撮る写真」は、写真史の記述の上では分離していますが、写真家の生活の上では一度も分離していません。 写真史の転換点を4軸で測り直す で ④ の軸を立てたのは、この分離が記述の側の都合であることを見えるようにするためです。

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