本文へスキップ
hdknr blog
戻る

写真史の転換点を4軸で測り直す — なぜ教科書は広告写真と Instagram を「歴史」に書かないのか

この記事では、写真の歴史における主要な転換点を 1839 年から 2022 年まで年表として並べたうえで、それぞれを 4 つの軸で評価し直します。

きっかけは、前回書いた ニューカラー — 1970年代アメリカでカラー写真が「芸術」になった瞬間 です。その流れで写真史の転換点を年表に並べていて、自分の整理に無視できない偏りがあることに気づきました。

ピクトリアリズムや f/64 グループには段落を割いているのに、Instagram は表の行 1 つで済ませていた。 そして広告写真は、1 行も書いていませんでした。

分量の問題ではありません。転換点を測る物差しが 2 本足りない のが原因です。

写真史の転換点には4種類ある — 技術・制度・流通・発注

まず、その物差しを整理します。転換点と呼ばれるものは、性質の異なる 4 種類に分かれます。

写真史の転換点を測る4つの軸を並べた図。技術的転換・制度的美学的転換・流通受容の転換・発注の転換について、それぞれの問いと例と記録する分野を対比している

この 4 つは独立して動きます。技術が可能になっても、芸術として認められるとは限らない。 ニューカラーがまさにその例で、カラー写真の技術は実用カラー方式のオートクローム(1907 年)とコダクローム(1935 年)で確立済みだったのに、芸術として承認されたのは 1976 年です。技術と制度のあいだに約 70 年の空白があります。

④ を独立させるのは、③ では答えられない問いがあるからです。③ は「どれだけの人がどこで撮り、見たか」という規模と場所の話で、その写真が誰の金と目的で撮られたかを問いません。スマートフォンで撮られた自撮りと、国家機関が指示書を配って撮らせた記録写真は、③ の上では同じ「流通が大きい出来事」に見えてしまいます。

そして ④ で最初に現れる発注者は、企業でも国家でもなく 個人 です。19 世紀の写真の圧倒的多数は、個人が写真館に金を払って自分や家族の像を作らせたものでした。この軸は写真の発明と同時に始まっています。

なぜ写真史の教科書は流通と発注の変化を書かないのか

ここでいう「正典」とは、写真史の教科書がほぼ必ず立項する定番の歴史記述のことです。その正典は、美術館と美術批評が書いてきました。分析単位は 「運動」= 共有された美学的綱領を持つ作家の集団 です。宣言があり、展覧会があり、名前のついた作家がいる。

デジタル化・インターネット流通・SNS には、そのどれもありません。

だから正典の書式に載らず、「背景」「文脈」の章に落ちます。②の軸だけが「歴史」として記述され、①③④は「環境」として扱われます。これは写真史そのものの性質ではなく、写真史を書いてきた分野の職業的な視野の問題です。

④ はさらに徹底して落ちます。発注者は作品に署名しないからです。 残るのは予算と指示書と契約で、どれも作家の名前では流通しません。広告写真は「誰の作品か」ではなく「何の広告か」で記憶され、国家プロジェクトの写真は所属機関の名前で保管される。正典の分析単位である「運動」に、発注者は原理的に収まりません。

写真史の主要な転換点 年表(1839〜2022)

以下は英語圏の正典的リストに日本の潮流を加えたものです。すべては挙げられず、何を採るかで必ず偏りが出ます。ここでは「教科書がほぼ必ず立項する」水準を基準にしました。

I. 発明と定着(1839〜1880年代)

年出来事何が転換したか
1839ダゲレオタイプ発表/タルボットのカロタイプ像の機械的定着。カロタイプはネガによる複製可能性を導入
1851〜湿板コロジオン法露光時間短縮。肖像写真の産業化の技術的前提
1854〜1860年代アンブロタイプ・ティンタイプ(安価な一点物)とカルト・ド・ヴィジット(ディスデリが特許化した名刺判の肖像写真)肖像写真が富裕層から大衆へ降りる。1860年代の「カルトマニア」。個人が発注者である写真の量的頂点
1878〜マイブリッジの連続写真、マレーのクロノフォトグラフィ時間の分解。肉眼が見られないものを見せる装置に
1880〜1890年代網版(ハーフトーン)の実用化と普及写真が活字と同じ版面に印刷できるようになる。これ以前は、写真を印刷物に載せるには木版へ彫り直すしかなかった
1888コダック No.1(“You press the button, we do the rest”、25 ドル)撮影と現像の分離=スナップショットの誕生。ただし価格帯はまだ富裕層向け
1900ブラウニー(1 ドル)スナップショットの大衆化。個人が「写真を発注する」のをやめ始める

II. 芸術としての自立と、職業としての成立(1890年代〜1930年代)

年運動何が転換したか
1890年代〜ピクトリアリズム / 1902 フォト・セセッション(スティーグリッツ)ソフトフォーカスと特殊印画で絵画に接近。絵画に似せることで芸術性を主張
1916〜1932ストレート・フォトグラフィ / 1932 f/64 グループ(ウェストン、アダムス、カニンガムら11名)反転。写真固有の性質こそが芸術性だと主張。絵画からの独立宣言
1920年代ニュー・ヴィジョン(モホイ=ナジ)/ 新即物主義(レンガー=パッチュ、ザンダー)極端なアングル、フォトグラム、類型学。人間の目とは違う視覚の探究。レンガー=パッチュやバウハウスの広告工房では産業受注と地続き
1920年代広告・ファッション写真の職業化(※1)写真が「依頼されて撮るもの」になる。ただし芸術の側からは失格条件とされた

※1 1911 年のスタイケンによるポワレのドレス撮影(『Art et Décoration』4 月号)が最初期の例とされます。1913 年にド・メイヤーが『Vogue』の専属写真家となり、1923 年にはスタイケンがコンデナストの首席写真家に就任、同時に J. Walter Thompson の広告の仕事で当時最高額の写真家とされました。ソ連でもロトチェンコとマヤコフスキーが国営店舗の広告を手がけています(1923〜25)。

この 2 つの流れは同じ 1920 年代に並走しています。f/64 が「写真固有の性質こそ芸術だ」と宣言していたのと同じ頃、その写真固有の性質は広告の技術として商品化されていました。 正典は前者だけを「運動」として記述します。

III. 記録・報道・宣伝の時代(1930年代〜1955)

年運動何が転換したか
1935〜1942FSA(農業安定局) — 歴史課の写真プロジェクト(※1)国家が写真を発注し無償配布する装置の成立。社会改良の道具であり、同時に政策広報の道具
1930〜1945各国の国家写真部門(※2)常設・専業の国家の画像生産機関が各国で一斉に成立
1930年代三色カーブロ印画によるカラー広告写真(コダクロームは 1935 年に登場、スチル用は 1936〜38 年)色が最初に実用化された先は、芸術ではなく広告と商品カタログ
1936〜『LIFE』創刊とグラフ誌の黄金期 / 1947 マグナム設立フォトエッセイと、著作権を持つ専業写真家という職能の確立。報道写真と広告写真が同じ版面と同じ資金構造を共有する
1943〜1950ストライカーが**スタンダード石油(ニュージャージー)**の写真プロジェクトへFSA と同じ指示書の方法が、そのまま企業広報へ移る
1952カルティエ=ブレッソン『決定的瞬間』幾何学的構成と一瞬の一致。35mm スナップの美学的完成
1955The Family of Man(MoMA、スタイケン企画)(※3)ヒューマニズム写真の頂点にして終着点。海外巡回の実務は USIA が担った

※1 FSA は Farm Security Administration(農業安定局)の略。1935 年に RA(Resettlement Administration、再定住局)の歴史課として発足し、1937 年に FSA へ、1942 年に OWI(Office of War Information、戦時情報局)へ移管されました。つまり 「FSA 写真」という呼び名は、発足時の所属官庁でも写真家の集団名でもなく、途中で移管された先の官庁の名前です。 作品群が発注者の組織名で呼ばれている、④ の軸のわかりやすい例でもあります。ロイ・ストライカーが主導し、約 7 万 7 千点の完成モノクロ写真を残しました。ストライカーの下で「何を撮るべきか」を列挙した指示書(shooting script)が用意され、採用しないネガにはパンチで穴を開けて使用不能にしています。ただし穴を開けたネガは破棄されておらず、約 10 万点が議会図書館に残っています(この処置は 35mm ネガに限られ、写真家の抗議で 1939 年に中止)。FSA/OWI を合わせた収蔵ネガは約 17 万 5 千点です。完成写真は新聞・雑誌へ無償で配布されました。 ※2 ソ連の対外向けグラフ誌『USSR in Construction』(1930〜41、ロトチェンコらが参加)、ドイツの宣伝省(1933)とホフマンによるヒトラー肖像の独占、英国の EMB(Empire Marketing Board、帝国通商局)から GPO(General Post Office、郵政省)へ引き継がれた映画部門、日本では内閣情報部の『写真週報』(1938 年創刊)と、東方社が『USSR in Construction』を範として作った対外宣伝誌『FRONT』(1942〜、原弘のデザイン、木村伊兵衛らの撮影)。なお「documentary」の語を広めたジョン・グリアソン自身が国家出資の映画部門を率いた人物で、その定義は “the creative treatment of actuality”(現実の創造的処理)でした。 ※3 68 カ国 273 名の 503 点で構成。5 つのバージョンが 37 カ国を巡回し、来場者は 900 万〜1000 万人と推計されます。企画は MoMA で、国際巡回は MoMA の国際プログラム(1952 年設立、ロックフェラー兄弟財団の助成)の枠組みで組まれ、海外巡回の実務は新設の USIA(United States Information Agency、米国広報文化交流局)が担いました。ロラン・バルトは『神話作用』(1957)で、アラン・セクーラは「The Traffic in Photographs」(1981)で、この普遍的な人類像をイデオロギーとして批判しています。

IV. 主観への転回(1958〜1970年代)

年運動何が転換したか
1958〜59ロバート・フランク『The Americans』(仏版1958/米版1959)「人類は一つ」の対極。粗い粒子と歪んだ構図による私的で批判的な視線
1967New Documents(MoMA、2月28日〜5月7日、シャーカフスキー企画。アーバス、フリードランダー、ワイノグランド)ドキュメンタリーの技法を社会改良ではなく個人的な目的へ転用
1968〜1970プロヴォーク(中平卓馬・多木浩二・高梨豊・岡田隆彦。2号から森山大道。全3号)「アレ・ブレ・ボケ」。言葉に対する写真の自律を賭けた日本独自の急進化

V. 即物性とカラー(1963〜1981)

年運動何が転換したか
1963エド・ルシェ『Twentysix Gasoline Stations』コンセプチュアル写真。作家性を排した無感情な収集
1960年代〜ベッヒャー夫妻の類型学(タイポロジー)同一条件での収集。のちデュッセルドルフ派の母胎に
1975ニュー・トポグラフィックス(ジョージ・イーストマン・ハウス、ジェンキンス企画、10名)崇高な自然風景の否定。人の手が加わった郊外の即物的記述。基調はモノクロ(ニューカラーとの違い)
1976〜1981ニューカラーカラーを「失格条件」から「中立的な選択肢」へ。詳細は前回の記事

VI. 美術としての写真(1977〜1990年代)

年運動何が転換したか
1977〜80ピクチャーズ・ジェネレーション(シャーマン、レヴィーン、プリンス)世界を撮るのではなく既存イメージを引用・盗用。引用元の多くは広告と映画
1978〜ジェフ・ウォールのライトボックスタブロー写真。絵画の規模と構築性を写真で引き受ける。装置は広告の照明看板と同じ
1980年代末〜デュッセルドルフ派(グルスキー、シュトゥルート、ルフ、ヘーファー)大画面・高精細・カラー。写真がギャラリーから美術市場へ

VII. 脱物質化(1990〜現在)— 正典が薄い層

ここまでの I〜VI と違い、この層は正典が「背景」として薄く扱います。冒頭で述べた偏りが最も出る場所なので、表ではなく散文で詳述します。

VII-a. デジタル化と画像の可塑性(1990〜2000年代前半)

Photoshop 1.0(1990 年 2 月)と Kodak DCS 100(1991 年 5 月、世界初の市販デジタル一眼レフ)。変わったのは画質ではなく、撮影後に像が可塑的になったことです。1990 年代の「写真の死」論争はここから来ています。

ただしこの議論は当時から過大でした。暗室での焼き込みや合成は 19 世紀からあります。デジタルが変えたのは可能性ではなく コストとスキルの敷居 です。

VII-b. インターネット流通と「貧しい画像」(1993〜2000年代)

変わったのは 写真を見る場所 です。印刷物とギャラリーから、画面へ。ヒト・シュタイエルが「貧しい画像(poor image)」(2009)と呼んだ、圧縮され劣化しながら高速に流通する画像が、量的には写真の主流になりました。

同時にストックフォトは、④ の軸に新しい形を持ち込みました。個々の撮影を発注するのではなく、発注されうる画像の在庫を先に所有するモデルです。

VII-c. スマートフォンと SNS による写真の全面化(2007〜)

カメラが通信端末に統合され、常時携帯されるようになります。そして Instagram(2010 年 10 月)。ここで起きたのは規模の変化だけではありません。

象徴的なのが 2012 年 です。1 月 19 日に Eastman Kodak が連邦破産法 11 条を申請し、その 3 カ月後に Facebook が Instagram を 10 億ドルで買収しました。写真を「化学と紙で売る産業」が死んだ年と、「無料で配って広告で回収する産業」が値付けされた年が同じでした。

職能の崩壊も具体的です。2013 年 5 月、シカゴ・サンタイムズが 写真部 28 名を全員解雇 し、記者に iPhone 撮影の講習を課しました。解雇者にはピュリッツァー賞受賞者が含まれています。マグナム(1947)が確立した「著作権を持つ専業の報道写真家」というモデルの、事実上の終点でした。

そして Snapchat(2011)が加えたのは 消える画像 です。写真が保存すべき物ではなく、その場で消費される 発話 になります。1839 年以来の「定着」という写真の定義に対する、静かだが根本的な反転です。

量の桁も押さえておきます。2026 年の撮影枚数は年間 約 2 兆枚(Rise Above Research の 2026 年 2 月予測で約 1.95 兆枚。Photutorial 系の推計は 2.1 兆枚前後で、推計主体により幅があります)。1 日あたり 50 億枚超、そのうち 約 94% がスマートフォン です。

VII-d. アルゴリズムと正統性の分散(2010年代後半〜)

計算写真によって、「撮る」は複数フレームの推論・合成になりました。ただし変化が大きいのは技術面ではなく 受容側 です。

1976 年には、MoMA のシャーカフスキーという 一人のキュレーター がカラー写真という実践全体を正当化できました。いまその機能を担うのはフィードのアルゴリズムと集計された反応です。正統性の付与が中央集権から統計的・分散的なものへ移りました。

さらに被写体の側も変わります。撮影され拡散されることを前提に設計された空間や商品が現れる。写真が世界を記録するのではなく、世界が写真に合わせて作られます。

これは 広告の論理が環境化した状態 でもあります。1920 年代には広告写真という限られた区画にあった「売るために構成された画面」が、フィード全体の既定値になりました。ブランドコンテンツとインフルエンサーへの発注は、④ の軸を企業から個人にまで分散させた形です。

VII-e. 生成 AI と索引性の切断(2022〜)

DALL·E 2、Midjourney、Stable Diffusion。被写体なしの写真的画像が成立し、索引性(そこに何かがあったこと)が切断されました。

象徴的な事件が 2023 年 4 月にあります。ボリス・エルダグセンが Sony World Photography Awards のクリエイティブ・オープン部門で受賞した作品《Pseudomnesia: The Electrician》が DALL·E 2 による生成物であることを自ら公表し、受賞を辞退 しました。本人は「AI 画像と写真は別物であり、同じ賞で競うべきではない」として、議論を起こすことが目的だったと述べています。

ただし実務の側で先に起きたのは、認識論の問題ではなく ④ の置き換え です。生成 AI が最初に食ったのは芸術写真ではなく、ストックフォトとカタログ撮影という 依頼されて撮られる写真 でした。争点も「本物か」より「学習データを誰が所有するか」に寄っています。

写真史の転換点を4軸で評価したマトリクス

年表のうち、4 軸の差が特に際立つ 19 件を採ってスコアリングし直したものです。図と下の表は同じ内容です。

写真史の転換点19件を技術・制度美学・流通受容・発注の4軸で5段階評価したマトリクス表。ニューカラーの行は制度美学軸のみが大で流通受容と発注がほぼゼロである一方、カルト・ド・ヴィジットと1920年代の広告写真と1935年のFSAは発注軸が極大であることを示している

評価は「ほぼゼロ < 小 < 中 < 大 < 極大」の 5 段階です。

転換点① 技術② 制度・美学③ 流通・受容④ 発注
1839〜50s ダゲレオタイプの肖像(富裕層)極大小小大
1854〜60s カルト・ド・ヴィジット(肖像の大衆化)中ほぼゼロ大極大
1888 コダック No.1(25 ドル)大小大中
1890s ピクトリアリズム中大小ほぼゼロ
1900 ブラウニー(1 ドル)中ほぼゼロ極大大
1920s 広告・ファッション写真の職業化小小大極大
1932 ストレート/f/64小大小ほぼゼロ
1935 FSA とグラフ誌小中大極大
1955 The Family of Man小大大大
1958 The Americans小大小小
1967 New Documents小大小ほぼゼロ
1975 ニュー・トポグラフィックス小大小ほぼゼロ
1976 ニューカラー小大ほぼゼロほぼゼロ
1977 ピクチャーズ・ジェネレーション小大小ほぼゼロ
1990 デジタル化大中中中
1993 インターネット流通/ストックフォト中小大大
2007 スマートフォン大小極大小
2010 SNS(アルゴリズムを含む)小中極大大
2022 生成 AI大大大極大

マトリクスが示すこと

1. ニューカラーは制度軸でのみ大きい

数十人の作家と数館の美術館の内部で起きた出来事で、当時の一般の人々の写真の撮り方・見方は 1 ミリも変わっていません。それでも写真史における重要性は本物です。「実践としての影響がゼロでも、制度的な意味は決定的でありうる」 —— 軸を分けて初めて、この両立が矛盾なく言えます。

2. SNS は逆の形をしている

美学的綱領を持たないので正典に載りにくい。しかし年間 2 兆枚という規模で撮影行為そのものを変えました。②で小さく③で極大 という形は、従来の物差しだと「歴史的に重要ではない」と誤って読まれます。

3. 4軸すべてが大きい転換点は稀

一覧で該当するのは 生成 AI だけ です。技術として新しく、芸術としての地位が争われ、流通量を変え、そして発注の構造を置き換えている。写真史上ほとんど前例のない形です。現在進行中の出来事を過大評価している可能性はありますが、少なくとも構造的には例外的といえます。

4. ①と③が連動するとき影響が大きい

ブラウニー(1900)とスマートフォン(2007)は、どちらも「①技術で敷居を下げ、③流通を桁で変える」という同じ形をしています。約 110 年を隔てた同型の出来事です。

5. ④が極大なのは肖像写真の大衆化・広告写真・FSA・生成 AI

いずれも正典の記述が薄い、あるいは美学的な言い換えで記述される出来事です。カルト・ド・ヴィジットは「流行」として、1920 年代の広告写真はそもそも立項されず、FSA は「社会改良の道具」と書かれる。生成 AI は「索引性の切断」という認識論の問題として語られます。発注という側面は、毎回それ以外の言葉に翻訳されて記述されます。

6. ④は「発注者が消える」方向にも大きく振れる

④ は発注者の交代を測る軸なので、増減ではなく入れ替わりの大きさを見ます。ブラウニー(1900)の ④ が大きいのは発注が増えたからではなく、個人が写真館に発注するのをやめたからです。同じ形が 2022 年にもう一度出てきます。

発注の軸で通史を読み直す — 個人・企業・国家

④ は 1930 年代に限った話に見えますが、通史を貫きます。順に追うと、写真の費用を出す主体が入れ替わっていく一本の線になります。

1839〜1850年代 — 最初の発注者は個人、ただし富裕層だけ。 ダゲレオタイプの肖像は高価で、依頼できるのは限られた層でした。写真はここで「芸術」でも「報道」でもなく、個人が金を払って自分の像を作らせるサービスとして始まっています。

1854〜1860年代 — それが大衆へ降りる。 安価な一点物のアンブロタイプとティンタイプ、そして 1 枚のネガから複数焼けるカルト・ド・ヴィジットが、肖像写真を中産階級と労働者層に開きました。1860 年代の「カルトマニア」です。規模は具体的で、1853 年の推計では全米で年 300 万点のダゲレオタイプが作られ、その大半が肖像でした。1850 年時点で全米のダゲレオタイピストは 1 万人を超えます。19 世紀に撮られた写真の圧倒的多数は個人が発注した肖像であり、④ の量的な頂点はおそらくここです。正典はこれを様式の問題ではなく「流行」として片付けます。

1888〜1900年 — 個人が発注をやめる。 コダック No.1(1888)は 25 ドルで、まだ富裕層の玩具でした。それが 1 ドルのブラウニー(1900)で大衆化します。“You press the button, we do the rest” が意味していたのは、写真館に頼むのをやめてよいということです。③ の軸ではスナップショットの誕生と拡大ですが、④ の軸では 発注者としての個人の退場 です。同じ出来事が 2 つの軸で逆向きに記述されます。

1920年代 — 企業が発注者の座に入る。 前提は 1890 年代に普及した網版で、これにより写真が活字と同じ版面に載るようになりました。それ以前は、写真を印刷物に載せるには木版へ彫り直すしかありませんでした。1920 年代に入ると、スタイケンがコンデナストと J. Walter Thompson の両方で働き、ドイツではバウハウスに印刷・広告工房(1925 年、主任はヘルベルト・バイヤー)が置かれ、レンガー=パッチュにとっても産業からの受注が仕事の大きな柱でした。写真が「依頼されて撮るもの」になった最初の局面です。

1930年代 — 国家が加わり、グラフ誌が両者を同床に置く。 FSA と OWI、『USSR in Construction』、宣伝省、『写真週報』と『FRONT』。同時に、1930 年代に実用化されたカラー(主力は三色カーブロ印画)が最初に使われた先も、芸術ではなく広告と商品カタログでした。そして『LIFE』(1936)では、報道写真のページと広告写真のページが同じ版面と同じ資金構造を共有します。国家の発注と企業の発注が、同じ紙の上で隣り合いました。

1943年 — 同じ人間が国家から企業へ移る。 ストライカーは OWI を離れた 1943 年、スタンダード石油(ニュージャージー)の写真プロジェクトへ移り、約 8 万点の記録を作ります。FSA と同じ指示書の方法をそのまま持ち込んだ企業広報でした。国家の広報装置と企業の広報装置が、1 年のうちに同じ人間と同じ手法で接続しています。 ウォーカー・エヴァンズが 1945 年から『Fortune』の専属になったのも同じ流れです。

1955年 — 展覧会が外交になる。 The Family of Man の国際巡回は MoMA の国際プログラムの枠組みで組まれ、海外巡回の実務は新設の USIA が担いました。正典はこれを「ヒューマニズム写真の頂点」と書き、費用と目的は書きません。

1990年代 — 発注者が画像そのものを在庫として持つ。 Corbis(1989)と Getty(1995)が世界の画像アーカイブを買い集めました。個々の撮影を発注するのではなく、発注されうる画像を先に所有するモデルです。マイクロストックがその価格を壊し、2010 年代のプラットフォームがブランドコンテンツという形で発注を個人にまで分散させました。

2022年 — 在庫が学習データになる。 生成 AI が最初に置き換えたのは、依頼されて撮られる写真です。④ の軸で見ると、生成 AI は 1920 年代に始まった「依頼されて撮る」という職能の、約 100 年後の決算にあたります。

そして 個人の発注は、この間ずっと途切れていません。 婚礼、遺影、記念写真、見合い写真、七五三と成人式の写真館。19 世紀の肖像写真館から今日まで連続する産業ですが、正典にはほぼ登場しません。作者もマニフェストも展覧会もなく、残るのは家庭のアルバムだけだからです。2010 年代以降のプロフィール写真やフォトウェディング、そして生成 AI による肖像生成は、この最も古い ④ が形を変えて表に出てきたものです。

FSA を「社会改良の道具」と書くと落ちるもの

この軸を引くと、III 節の 2 項目が同じ落とし方をされていることが見えます。

FSA は国家の画像生産機関でもありました。 撮るべき対象を列挙した指示書が用意され、採用しないネガにはパンチで穴を開けて使用不能にし、完成写真を報道機関へ無償で配布した。そして 1942 年に部署ごと OWI(戦時情報局)へ移っています。1948 年のスミス=ムント法が「対外向けに作った情報を国内へ流さない」枠組みを作ったこと(明文の配布禁止規定は 1972 年と 1985 年の修正で確立)も、この構造の裏書きとして読めます。演出が政治問題化した実例もあり、ロススタインの牛の頭骨(1936)は移動させて撮ったことが露見して 1936 年大統領選の争点になりました。

The Family of Man の国際巡回は冷戦期の文化外交でした。 正典は「ヒューマニズム写真の頂点」と記述します。

ただし、2 点は雑にまとめない方がいいと思います。ひとつは機構の違いで、FSA は他人の写真を止める検閲ではなく、自分で作って無料で配る供給です。ソ連やドイツは供給と抑圧の両方をやりました。同じ「プロパガンダ」で括るとこの差が消えますし、実際 FSA の画像は政権批判にも使われ、いまはパブリックドメインの公共アーカイブとして残っています。もうひとつは起点ではないことで、ベルティヨンの司法写真とマグショット(1880 年代)、植民地の人体測定写真、第一次大戦の公式カメラマンと前線での私物カメラ禁止があります。1930 年代に新しいのは、国家が写真を使い始めたことではなく、常設・専業・大量配布の官僚機構になったことです。

そして興味深いのは、これが本記事の主張の反例ではなく 同じ機構の別の例 だという点です。正典は「運動」を単位に書くので、作者もマニフェストもない変化を落とします。国家の写真部門にも、広告代理店にも、作者もマニフェストもありません。あるのは予算と指示書です。だから FSA は「社会改良の道具」という美学的な言い換えで正典に入り、エヴァンズとラングが作者として立項される。Instagram を落とすのと同じ書式が働いています。

ニューカラーが否定していた参照点は広告写真だった

④ を引くと、前回の記事で扱ったニューカラーの話も別の形に見えてきます。

カラーが芸術として失格だった理由は「商業的・素人的だから」でした。つまり 1976 年に否定されていた参照点のひとつは、広告写真です。 マトリクスでニューカラーは ④ でほぼゼロですが、それは ④ と無関係だったからではありません。④ の側にあるものを否定することで ② を獲得した からです。

その 1 年後、ピクチャーズ・ジェネレーション(1977〜80)は否定の代わりに引用を選びます。リチャード・プリンスが再撮影したのはマルボロの広告でした。逆向きの動きもあり、1980 年代後半からのベネトンの広告(オリビエロ・トスカーニ)は、報道写真の見え方を広告の側へ持ち込んでいます。同じ境界線が、10 年ごとに向きを変えて引き直されています。

Instagram のフィルターは40年前の色を素人写真に返却した

最後にひとつ、軸を分けたことで見えてくる符合を挙げます。

Instagram 初期のフィルター名 —— Lo-Fi、Nashville、X-Pro II —— は、いずれも 1970 年代的な素人カラーフィルムやクロスプロセス(本来と異なる薬品で現像し色を転ばせる手法)の見え方を模倣 したものです。ニューカラーが「商業的・素人的だ」として排除されていた色を芸術へ持ち込んでから約 40 年後、その色がアルゴリズムとして 素人写真の側に返却された。

被写体も重なります。エグルストンが 1976 年に美術館へ持ち込んだのは、駐車場、食卓、ガソリンスタンド、天井でした。先の年 2 兆枚を秒に直すと約 6 万枚。いま毎秒それだけ撮られているものと、ほぼ同じ被写体です。

ニューカラーは「誰もが撮っているもの」を美術館に入れた運動で、SNS は「誰もが撮っている」状態そのものを全面化した事態です。 同じ vernacular(土着的・日常的なもの)をめぐる出来事が、片方は制度軸で、もう片方は流通軸で起きた。前者は正典に載り、後者は載らなかった。違いはそれだけです。

なお、この符合は形式的なものであって、Instagram の設計者がニューカラーを参照したという意味ではありません。



前の記事
「1 分間通信がなければアラート」は作れるか — LTE-M 機の死活監視はサンプリング周期で決まる
次の記事
写真家で読む写真史 — ダゲールから川内倫子まで、欧米と日本を時代別に